鎌倉 公 方。 鎌倉公方と関東管領 【グレゴリウス講座】

境内にある廟所には、時宗公が禅の修業をしていたときに信仰していた十一面観音坐像(鎌倉観音霊場第三十三番)と北条時宗公、貞時公、高時公の各木像が安置してあります。

川端康成の小説『千羽鶴』の舞台になったことでも知られる茶室 烟足軒(えんそくけん)も、もともとは常に茶を嗜んだという鶴隠周音が構えたものです。

上記でご紹介した足利基氏が鎌倉公方と称したのが始まりです。

氏満は、関東管領を継いだ上杉憲春とともに宇都宮氏綱をはじめとする関東諸勢力と戦い、関東に強力な支配権を形成します。

しかし、1538年に ・足利晴氏連合軍と、第1次国府台の戦いにて敗れて、安房へと逃れたため、小弓公方は消滅しました。

鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏はやがて対立し、永享の乱(1439年)では関東管領の上杉憲実が幕府方につき、鎌倉公方の足利持氏を敗死させます。

この後、越後守護上杉房方の三男の上杉憲実が、従兄弟で関東管領の上杉憲基の養子となり、鎌倉へ入ります。

その際、嫡子足利義詮を鎌倉に残し、義詮を補佐するため斯波家長、次いで上杉憲藤を関東執事に任命します。

それを見た頼朝公は激怒しましたが、妻・政子がその場を取り成し、助けたといいます。

観応三年(1352年)、直義が死去して観応の擾乱は終結。

111• 鎌倉二十四地蔵尊第四番札所 鎌倉二十四地蔵尊 光触寺 鎌倉二十四地蔵尊第五番札所 鎌倉二十四地蔵尊 杉本寺 尼将軍地蔵尊。

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ただ、この時、足利基氏はまだ10歳であり、補佐役が事実上、政務を執っています。 重房の子の上杉頼重が二代当主、孫の上杉憲房が三代当主となります。 古河御所の訪問記 1455年、享徳の乱の際に、初代・古河公方となった足利成氏により築かれたのが、古河御所館 です。 永享十年(1438年)、持氏が憲実を暗殺するという噂が立ち、憲実は鎌倉を出奔して領国の上野国平井城に下り、持氏は憲実討伐のために出陣します(永享の乱)。 代々の東国武家である畠山国清および宇都宮氏綱が務めていた関東執事職および越後・上野守護職は、新興勢力である上杉憲顕に与えられ(この時の関東執事就任を、初代関東管領就任と見なします)、上杉氏は代々その職を継ぐことになります。 日本の素晴らしい文化を広く伝えていくためには法事や観光だけでなく、さまざまな行事などを通して、楽しみに訪れていただける場所となることが必要だと考えております。
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